レノボが中国で集中砲火、製造業を牽引した大企業がつるし上げられる寂しい現実





© ダイヤモンド・オンライン 提供2000年、インタビューを受ける30代の楊元慶総裁 (肩書きは当時。著者提供)
中国のインフルエンサーの動画が大反響

 11月に入って、香港に本社を置く、大手パソコンメーカーのレノボは、中国国内でつるし上げに遭い、たいへんな騒ぎになっている。

 司馬南というインフルエンサーが「レノボを問いただす」というシリーズ動画を7本連続でインターネットにアップし、レノボの経営上の問題点を指摘した。その動画が指摘する批判の焦点は、主に次の問題に当たっている。(1)レノボが中国の国有企業から株式会社になったとき、株価が不当に低くされたため、「13億元(約232億円)にものぼる国有資産の流出につながった」。そればかりではなく、もともと同社の100%の株式を所持していた中国科学院はいまや、その所有している株が全株数の30%以下に減らされている

(2)同グループの利益の30%以上も占めるレノボの役員報酬が高すぎる。レノボの名誉会長・柳伝志氏が定年退職したはずなのに、依然として1億元(約17.8億円)以上の年収をもらっている

(3)27人の重役の中で、外国籍が14人もいる。これでも中国企業と言えるのか

(4) 研究開発予算が3%にも満たないレノボはハイテク企業として証券市場に上場する資格はあるのか

(5)代理店や下請け企業に1000億元(約1兆7700億円)もの未支払い金があるレノボは、実は債務不履行に準ずる状態に陥っている

 騒ぎになる約1カ月前の10月9日、レノボグループは新興ハイテク企業向け株式市場「科創板」へのIPO申請を出した。しかし、わずか1日でその申請を自ら取り下げた。この行動が中国の関係当局からの圧力を受けて起こされたものか、それとも自らの意思によるものだったのかは不明だが、一般大衆の目には、レノボの足元が揺らいでいると映っている。もともとレノボに対してあった不信は、さらに強まった。

 そこへ司馬南氏側が制作した動画がアップされ、中国社会で大きな反響を巻き起こした。その結果、彼のSNSアカウントは、フォロワーが数百万人も増えている。うち、抖音(中国版TikTok)IDで500万人、微博(中国版ツイッター)で150万人、 bilibili動画(動画共有サイト)で100万人のフォロワーの増加が確認できた。1億人近くのフォロワーを有する司馬南氏のインフルエンサーとしての市場価値は2億元(約35.6億円)を超えたとみられる。

 中国経済界の「ゴッドファーザー」と呼ばれ、レノボの名誉会長だった柳氏は特に、司馬氏らの厳しい批判の矛先に立たされた。
「ゴッドファーザー」と敬意をもって呼ばれていたレノボ名誉会長

 1990年代後半、当時の中国の製造業の勃興と隆盛を象徴する企業は、家電大手のハイアールとレノボ(当時はレジェンドグループ)だった。私はレノボにも大きな関心を払い、取材のために、何度も北京の中関村にある同社を訪問した。

 レノボの前身は1984年11月に設立された「中国科学院計算科技研究所新技術発展公司」である。当時、中国の研究機関も大学も予算に苦しんでいた。こうした困窮から自力で何とか脱出することはできないかという発想から、同社が設立された。科学院が出資したのはわずか20万元(現在のレートで約350万円)。事務所として割り当てられたのは、研究所の入り口にある20平米足らずの守衛室だった。

 この風前の灯火のような弱い会社を、パソコン分野で中国一の地位を持つ企業まで育てたのは今回、批判の嵐に襲われた柳氏だった。2000年に、早々と会社の経営権をよりインターネット経済の動きに敏感な若い世代に渡すべきだと主張した柳氏は、そのあと、当時、まだ30代前半の楊元慶氏(現レノボ会長)を総裁に抜擢した。

 次世代経営者の育成に大きく貢献した彼はのちに、中国経済界の「ゴッドファーザー」と敬意をもって呼ばれるようになった。ただ、ここ10年あまり、資本を操ることで巨額の富を求めるといった風評があり、柳氏に対する世間の目は相当厳しくなっている。
かつてのレノボ社内の空気を変革した現会長・楊氏

 柳氏には面識はないが、楊氏とはかなりドラマチックな交際があった。

 2000年、私はテレビ取材班を連れて、北京にオフィスを構えるIT企業十数社を訪問した。中国企業もあれば、外資企業もあったが、レノボを事前取材したとき、同社の広報責任者から暗に金銭的な提供が求められた。当時取材したこの十数社の中で、こうした要求が出されたのはレノボだけだった。言うまでもなく、私は断った。そして取材リストからレノボを消した。

 取材が終わって日本に戻った私は、この問題を日本で発行される中国語新聞で取り上げた。思いもよらないことに、この記事がちょうど日本訪問中のCEOである楊氏の目にとまった。楊氏は、部下に善処しろと指示するのではなく、私の自宅に電話をかけ、自ら事実の調査に乗り出した。

 私から事のいきさつを聞いたのち、楊氏は「私たちは世界一流の企業を目指したいが、残念ながら現段階では、まだ社員の誰もが一流になったとは言えない。しかし、私たちの誠意を信じてください」と述べた。

 中国に戻ってからも楊氏本人は最後まで自らこのクレーム処理に取り組んだ。クレーム処理の結果を知らせる電話の中で、楊氏は、「もし私たちの会社にもう一度機会を与えていただけるなら、ぜひわが社に来てください」と再度の訪問を誘った。それが私とレノボ、そして楊氏本人との長いお付き合いのスタートとなった。

 柳氏から企業経営の権限がバトンタッチされた楊氏は着任早々、新しい企業文化作りに心血を注ぎ始めた。
肩書で呼ぶのをやめよう!社風を変えるのに心血注ぐ

 当時、社内では「××部長」、「○○課長」といった肩書を重視する名前の呼び方がはやっていた。それをやめさせようとして、直接、名前のみであいさつしようと提案した。しかし、社員の誰も応じなかった。

 苦悩した楊氏は朝早く会社に出勤して、会社の正門の前に立って、出勤する社員を迎えた。「楊総早(楊社長、おはようございます)」とあいさつした社員に対しては、社内に入るのを認めない。「元慶早(元慶、おはよう)」と呼び方を改めた社員だけを通した。こうしていろいろと苦労して会社の空気を変え、新しい文化を定着させ、やがて柳会長が育てた会社をさらに大きく伸ばし、世界に雄飛する企業となった。

 私のインタビューを受けるために、地方出張に行く午前の航空券を夕方頃に変更してまで私のスケジュールに合わせてくれたり、非常に協力的な楊氏ではあるが、最後の最後まで、日本の中国語紙に掲載された私の記事の内容と私の自宅の電話を彼に知らせた人の名前を教えてくれなかった。「日本にいる中国人で、あなたを尊敬するファンだ」とお茶を濁すばかりだ。

 長年、尊敬していたレノボがボロクソに批判されているのを見て、この会社の歩んできた道を知っているだけに、心を痛めた。

 売り上げ重視で、技術開発に対する熱心さが足りないといった問題も確かに存在している。役員報酬の可否も議論する必要がある。しかし、今回の動画の拡散の背後にある思惑を、私は警戒する必要があると思う。特に国有資産の流出といった批判は事実が曖昧で、こうした動きに対しては慎重に観察していく必要があるだろう。